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母親の資格 [親子論]

母親には2つのスタイルがある。
A)「良い母親はこういうもの」という社会通念に自分を近づける。
B)自らの本能の赴くままに、子供への愛情を表現する。

世間様から後ろ指を指されないように、良い母として振る舞う。
その行き着くところが、無私なる母といういびつな存在だ。
良い母親の行動を真似したところで、子供との心のつながりが無ければ良い母にはなれない。
せいぜい、何もわかっていない他人から、良い母だと思ってもらうのがせいぜいだ。
愛情は、心の内から自然と発する感情である。
子供への愛情が義務として課された時点で、母の愛は死んだのだ。

自らの最も内面からわき出しているものが愛情であって、
子供への愛は、親のエゴそのものなのである。
自分の心と向き合って生きてきた母親は、子供の心にも向き合うことができる。
母子の心の交流がある関係は後者の愛情でしか築けない。

母親には自発的に子供を愛する能力が備わっているが、
無私の母親から、自らの本音と向き合うことを禁じられて育った子供は、
内面の感情を見失い、自発的に愛する能力を失っている。
だから、かつて自分がされたのと同じ方法で子供の心を殺す。
機械的に、子供の生えそろったばかりの翼をもぐのだ。
育児において、母親は自らの心とどれだけ向き合ってきたかが問われる。

母親に必要なことは、自分の心の赴くままに、自分の方法で子供を愛することだ。
それができないなら、育児は地獄だろう。
親にとっても、子供にとっても。


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無私の母親という呪い [親子論]

無私の母親は、「無私でなくてはならない」というルールの奴隷であり、
無私であるべきという強迫観念に支配されたロボットである。
無私の母親の愛情は、ロボットのサービスであり、
血の通った人間としての愛情ではない。
このような母親は子供を愛していない。
無私であるべきという強制力に「いやいや」従っていて、内心では納得していない。
だから、無私の母親の内面は苦渋と不満に満ちている。
自分の人生を犠牲にした子供への憎しみで満ちている。
しかし、良き母であるべしという強迫観念に抑圧されて、子供への憎しみを認めようとはしない。
内面のやましさ故に、子供への愛情を大げさにしつこくアピールする。

無私の母はフォーマットにこだわる。
子供の気持ちよりも、むしろ、良い母のフォーマットにこだわる。
自分が愛情豊かな母親だと他人に認めてもらうことが重要なのだ。
無私の母親は、子供のためという大義名分があれば、
どんな非人道的なことでも子供に押しつけることができる。
心のつながりなど無いのだから、子供の心の痛みを感じることはない。
子供が痛みを訴えても、母親の愛情に対して痛みを感じる子供の心に問題があると考えて、
子供の罪悪感を刺激して、子供の感じ方を変えようとする。
自分は良い母である以上、悪いのは必ず子供の側でなくてはならないのだ。
親子関係が思い通りにならなかったら、子供の側が変わらなければならない。

無私の母は、自らの人生と子供の心を対価として「立派なお母さん」という評価を得るだろう。
その評価こそが、無私の母の人生における唯一の勲章なのだ。
しかし、勲章によって、無私の母親の心が満たされることはない。
それは、ロボットである無私の母の心が空っぽだからではある。
しかし、本人はそのことを認めずに、外部のせいにする。
「私は正しいことをしている。それなのに満たされないのは、夫と子供が悪い」
無私の母の心の中は、家族への不満や怨嗟に満ちている。

無私なる母のなれの果ては、内に怨念をため込んだロボットなのだ。
そして、内なる怨念は、ふとした瞬間に顔の表情に出てしまう。
本人は笑っているつもりでも、それは筋肉の運動にすぎない。
冷静な観察者は、笑顔の裏に恐ろしい般若の表情を見て取ることができる。

無私の母であるべしという強迫観念は、子供と自分を確実に不幸にする呪いである。
家庭にとって、無私の母親ほどの害悪はないだろう。


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親と疎遠になるのも未来志向 [親子論]

親と疎遠になることを決めたのは、過去の恨み辛みが原因ではない。
手段を選ばずに周りをコントロールしようとする母から、
自分と家族を守るためだ。

母は、毎週のように自分の家に俺たち家族を呼びつけた。
子供を連れて移動するのはしんどいので、
こっちに来いと言っても絶対に来ない。
最初のうちは、初孫を見たいのだろうと思い、
出来る限り行くようにした。
でも、要求はエスカレートするばかりなので、断ることにした。
俺が思い通りにならないと、妻の携帯に電話をして、
俺の知らない間に約束を取り付けるようになった。
家に行けば、「良い親子ごっこ」を強要され、
邪険に扱うと同情を引くための芝居を始める。
俺が思うに、母は何時までも「良い母」でありたいのだろう
孫を連れて子供が遊びに来ることが、そのための条件なのだろう。
母の良い母ごっこに付き合うことが、
俺たちに負担であろうとそんなことは知ったこっちゃ無い。
彼女は、彼女の定義する「良い母」でありたいのだ。
子供は、そのための手段・道具に過ぎない。
俺自身、「良い親子ごっこ」には心底うんざりしていたし、
妻や子供をそれに付き合わせる気にはなれない。
特に子供達にはそういう人間関係に接して欲しくなかった。
だから、距離を置こうと決意をし、その結果とても楽になった。

母よりも父の方がいろいろな確執があった。
ただ、父とは大学を卒業したあたりから、
完全に他人の関係になっており、
お互いに心を開かず、当たり障りのない対応が出来ていた。
別に父との関係をわざわざ絶つ必要は無かった。
母がいなければ、父との関係は今まで通り続いていただろう。


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親孝行という悪徳 [親子論]

神経症とその予備軍には、内的自己規制の多さが特徴だ。
美徳の皮をかぶって、個人の思想を麻痺させる自己規制。
この部分をとことんまで疑う必要がある。
神経症およびその予備軍の生きづらさの根本原因は、
親子関係に起因する場合が多い。
親子関係の問題が解決されない背景には、
親を悪く思う事への強い自己規制がある。

ダメ親は、自分がダメなことを全て周りのせいにして、
自分は被害者のふりをして自己正当化をする。
物心つく前から、親の自己正当化を訊いて育った子供は、
親の身勝手な自己正当化と同じような思考回路で、親を正当化する。
子供が親を正当化しようという欲求は強い。
親がちゃんとしていれば、親のダメな点を批判しつつも、全体として肯定できる。
親がダメであればダメであるほど、
子供が親を正当化するための自己規制が強くなる。
履歴書の尊敬する人の欄に「両親」とか書いちゃうやつって、病気だと思うな。
きっと、ろくでもない「両親」なのだろう。

親孝行というのは、自発的なら美徳だが、押しつけなら悪徳だろう。
至る所で、親孝行の名の下に子供の権利や気持ちが蹂躙されている。
大切に育てられた子供が、親を大事にしたいという気持ちをもつ。
これは素晴らしいと思うが、この場合には、
わざわざ親孝行のすばらしさを吹聴する必要は全くない。
酷い親が子供を縛って管理する場合に親孝行の義務を押しつける。
親孝行の素晴らしさが強調される家庭は、
親が子供を自分の道具として使う酷い家庭だろう。
恩というのは、教える物ではなく、心から湧き出るもの。
子供が親に恩を感じない場合、それはもうしょうがない。
親孝行の美徳とたたき込んで恩を強要したところで、
子供が苦しむだけで、そこに何の心の交流もない。
親孝行の素晴らしさを繰り返す親は、
親子の心の交流よりも、子供からいかに利益を吸い上げるかに重きを置いている。
こういう親は、例外ではなく、とても多い。

親の事を思い出したり、実家に帰ろうと思うと、心の平安が乱れる人は、
自己規制を取っ払って、言いたいことを言ってみるべきなんだよ。
そうすれば、自分たち親子の真の絆の太さがわかる。
親子関係が本物であれば、何があっても崩れない物がある。
子供が何か言ったぐらいで、全崩壊してしまう関係は偽物なのだ。
そんな物のために、神経をすり減らす必要はない。
どっちにせよ、自己規制は無い方が豊かな人生を送れる。

自己規制がある人って、自己規制が必要なんだろうね。
自己規制を辞めたら親子関係が崩壊することを本能的に知っている。
その直感は、おそらく正解なのだろう。
だから、自己規制を辞められない。
でも、子供の自己規制によってようやく保たれているような親子関係は
崩壊した方が、親子の両者にとって幸せだと思うのだよ。


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親子の視点から見る家庭力学 [親子論]

完全に満たされる親子関係はない。
子は親に多かれ少なかれ満たされない思いを抱く。
親は子供の要求を多かれ少なかれ負担に感じる。

子供の視点から見た親子関係:
親はわかってくれない。
親は、自分の都合ばかりを押しつける。

親の視点から見た親子関係:
子供は、親の都合を考えてくれない。
子供は、要求ばかりする。

親子関係は、子供の視点から見るか、親の視点から見るかで違ってくる。
これはどちらが正しくて、どちらが間違えているかという問題ではない。
一つの物事をどういう角度から見るかという違いに過ぎない。

親子の双方が自分が正しくて、相手が間違えていると思うと、
お互いに避難の応酬の対立関係になる。

対立関係
子供:子供が正しく、親が悪い。
親 :親が正しく、子供が悪い。

これは反抗期などにありがちなパターンである。
まあ、それなりに健全な親子関係といえるだろう。

思春期を乗り越えて、親離れ子離れができたると、
親子は対等になり、大人の協調関係を築ける。

協調関係
子供:子供も正しい、親も正しい。
親 :親も正しい、子供も正しい。


健全な人間関係を築くためには、お互いの立場を理解する必要がある。
自分の視点を保持した上で、相手の視点で物事を見るのだ。
このレベルの人間関係を築ける親子のなんと少ないことか。

非健全は親子関係としては、支配関係と、欺瞞関係がある。

支配関係
子供:親が正しく、子供が悪い。
親 :親が正しく、子供が悪い。


親が子供を罪悪感で縛れば、簡単に自分の意見を子供に刷り込める。
親が愚痴ったり、惨めな演技をすれば、
子供は、親に要求をすることは、悪いことだと信じ込む。
親に対して何らかの不満がわいても、
親を責める代わりに不満を抱く自分を責めてしまうようになる。
子供は自分の視点を捨てて、親に迎合するのである。
これが支配関係だ。
子供が自分の視点を放棄している点が、協調関係とは根本的に違う。

この家庭では、摩擦が起こらないので、
外からは、仲が良く、お互いが理解し合っているように見える。
そして、自分たちも、仲良し親子だと固く信じている。
しかし、子供は親を理解・共感しているのではなく、自分を捨てているだけだ。
支配された子供は、親が自分に何を望むかはわかっても、
自分が何をやりたいかがわからなくなる。
支配関係で育った人間は、他人から認めてもらわない限り生の実感がもてない。
それが、自分を捨てることの代償だ。

支配家族の恐ろしいところは、子供の心の中で親が独裁者として君臨することだ。
文字通り、24時間、監視されているも同然なのだ。
この支配の鎖は、たとえ親が死んでも解かれることはない。
支配された子供は、親から離れると、空っぽになる。
なぜなら、自分の視点はすっかり枯れていて、心の中に親に代わるものが無いからだ。

欺瞞関係
子供:子供が正しく、親が悪いと思いつつ、親に迎合。
親 :親が正しく、子供が悪い。


俺の場合は、両親への憎しみを意識しつつも、服従してきた。
行動的には、支配関係と違わないのだけど、
自分の心の主体性は何とか保たれる。
その代償として、自尊心が低下し、
感情を抑圧するのに多量のエネルギーを使う。

両親が自分の弱さで子供を縛ろうとした場合、
子供は親に思い切り、ぶつかれない。
対立関係が築けないので、協調関係も築けない。
家庭を保つためには、親の価値観に逆らうことはできない。
そこで、選択肢は、支配関係か欺瞞関係しかない。
どちらも、茨の道だ。


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「親がいない人もいるのだから、親の悪口を言うべきではない」という欺瞞 [親子論]

親を切るというのは自分の過去の大部分を捨てることだ。
親を切れば、兄弟・親戚とも切れる可能性が高い。
それだけの犠牲を払っても、切らないと自分を守れないような親もいる。
俺にとっては、親はいない方がマシだから、親との縁を切ったわけ。
すばらしい親がいる人はもちろん、うらやましいけど、
何らかの事情で、最初から親がいない人もとてもうらやましい。
どんな親でもいるだけですばらしいという奴には、
俺の親にのしをつけて謹呈したいぐらいだよ。

世の中には親のせいで苦しんでいる人も大勢いる。
可哀想な人への配慮が必要というのなら、
俺のようにマイナスな親を持った人間に配慮して、
親の愛情のすばらしさを語るのを禁止するべきだよ。
でも、そういう意見は聞いたことがない。
「就職できない人もいるから、仕事の愚痴を言うな」とか
「北朝鮮のような独裁国家もあるんだから、日本政府の悪口を言うな」
とか、この理屈はなんだって使えるはずなんだけど、
この理屈で守られているのは親だけなんだよな。

「親がいない人もいるのだから、親の悪口を言うべきではない」というせりふは、
子供の批判を封じるために、親が子供に向かって言う場合が多い。
親が自分への批判を防ぐためにつかう常套句なんだよ。
でもって、親に支配されている子供がそれを鵜呑みにしてるわけ。
他人が親の悪口を言うのに過剰反応する奴は、
きっと自分の親から批判を禁じられていたんだろうね。

本当に親がいない人は、親がいなくて困ることもあるけど、
煩わしいことがないから、悪いばかりではないと言ってたりする。


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不完全だからこそ、親は批判されるべき [親子論]

完全な人は存在しない。それは当たり前。
俺が問題にしているのは、親が不完全な人間であることではない。
不完全な人間である親が、批判を禁じることで、
完全な存在(神)として振る舞うことを問題にしているのだ。

そもそも不完全であるからこそ、批判が必要なのだよ。
100%の正しさではあり得ないとしても、100%を目指す義務がある。
10%の正しさと90%の正しさでは全然違う。
たとえ100にならなくても、10%を11%にしていく努力が必要。
全ての人間は完全でない以上、
親は独善的にならずに、子供の意見に耳を傾ける必要がある。

「全ての人間は不完全なのだから、親を批判してはならない」という考えを拡張すると、
全ての人を批判してはいけなくなる。
しかし、家庭においてこのルールが適用されるのは親だけなんだよ。
子供に批判をさせない親は、子供を好き放題に批判する。
子供の主張はわがままで、親の主張は教育的配慮になる。

親は子供を好きなように批判するけれど、子供は自己弁護すら許されない。
このように一方的な関係は、至る所に目にすることが出来る。
たとえば、カルトの教祖と信者の関係や、独裁者と人民の関係など。
批判の権利が一方にしかない関係の正体は支配と従属である。
子供に批判を禁じる親の正体は、カルトの教祖や独裁者と変わりない。

「人間は不完全だから、親を批判するな」と言う親は、
自分の不完全さを改善する気が、最初からないのだ。
子供の人間性よりも、支配・管理を優先し、それを親の愛と呼ぶ。


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親は精一杯やれば、それでよいのか? [親子論]

どんな親だって、自分は精一杯やっていると言うんだよ。
特に酷い親ほど、自分はベストを尽くしたと断言する。
でも、精一杯かどうかなんて、本人にしかわからない。
精一杯やったという言い訳が通用するのは自分に対してだけ。
その言い訳は、他人には通用しない。
精一杯やってもダメなら、その結果に責任を負うべきだよ。
精一杯というのは免責事項ではない。

たとえば、アル中は、酔っぱらえば弱い人間に暴力をふるう。
それはアル中であれば仕方がないことで、
アル中的には精一杯やっても、酩酊すれば子供を殴る。
そして、自分は精一杯やったと胸を張る。
俺にはそれが納得いかない。
「アル中を治すという選択肢もあるんじゃない?」と俺は思うわけ。
アル中の精一杯は酒を飲みながらの精一杯であって、
酒を断てば、精一杯のレベルはぐんと上昇する。
「なんでそれをしないの?」と思う。

精一杯というのは弱者の薄汚い言い訳なんだよ。
精一杯でダメなら、より強くならなければいけない。
強くなる努力はしたのか?
現状を変える努力をしない奴ほど、
精一杯だからしょうがないって言うんだよ。

子供に対する精一杯のレベルは親の精神状態に大きく依存する。
だから、俺の子育ては自分と妻の精神状態を良く保つことから始まる。
とにかく、家庭に関係ないストレスを減らすこと。
仕事もほどほど、つきあいはひかえめ、趣味はきっちり。
最大のストレス源である実家も容赦なく切る。
妻が遊びに行くときは喜んで送り出し、まめに妻を実家で休ませる。
俺と妻のどちらかに余力があるときは、それなりに上手くいくけど、
問題はどちらもしんどい時。
そういうときは、俺が家事を率先してやって、妻を良い状態に保つ。
でもって、状態が良い妻に育児を任せて、俺は家族から距離を置く。

俺は人生設計から、子供への精一杯を高める努力をしている。
自分が一杯一杯にならないように、細心の注意を払っている。
一杯一杯になった時点で負けなんだよ。で、それは自分の責任。
「一杯一杯だったから、しょうがない」って言うのは
言い訳にもなんにもなりゃしない。
それこそ、甘えだと思う。

俺は口が腐っても「精一杯やったからしょうがない」とは言わない。


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愛せない親ほど、子供の心を支配する [親子論]

精神的に未熟で自分のことに手一杯なら、子供は重荷にすぎない。
そして、いくら精神的に未熟でも、子供は作れる。
かくして、愛されない子供が量産される。

愛されない度合いは人によって違うのだが、
より愛されなかった子供ほど、親に執着する傾向がある。
俺の知り合いで最も親に執着していたのは、物心が付く前に親から捨てられた人だ。
彼女は自分を捨てた親を必死でかばっていた。
どう考えてもひどい親なのに、
そのことを指摘すると火がついたように怒った。
「悪いのは自分だから親を責めるな」と。

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親の愛が少ないと、聞き分けの良い子になる [親子論]

我が子を全く愛さない親は少ないが、愛情にはいろんなレベルがある。

1.悪い子でも愛される
2.良い子でないと愛されない
3.無関心、もしくは、育児放棄
4.精神的に依存
5.ストレス発散の手段(肉体的・精神的虐待)


自分が親になってみてわかったけど、本当の愛って言うのは1なんだよ。
それ以外はすべて愛情の不足。
「愛されていない」と言っても良いだろう。

親が子供を愛していると、子供は親に反抗できる。
子供は親が自分を無条件に受け入れることを知っているから、
「パパ嫌い」とか平気で言えるわけ。
親は絶対に自分を捨てないという確信があれば、
悪い子になれるし、反抗できる。だから親離れできる。

親が子供を充分に愛していなければ、子供は親に反抗できない。
子供は親から見捨てられると生きていけないので、
親が見捨てるぞと脅せば、親の顔色を窺うようになる。
だから、親の言いつけを守る手間のかからない子になる。
この脅しが成り立つためには、親子の絆が弱い必要がある。
自分が絶対に愛されているという確信があれば、
見捨てるぞと言う脅しは脅しにならないのだ。
愛情が薄いが故に、子供をコントロールできて、
子供は聞き分けの良いいい子になり、親は楽して子育てができる。
親にとってはいいことづくめに見えるかもしれないが、
親が楽をしたツケを子供が一生かけて払い続けることになる。

親子関係がすべての人間関係の基礎だから、
親の顔色をうかがって育った子供は、常に周りに気を遣う八方美人になる。
その結果、常に損な役回りを引き受けながら、ストレスをためていく。
他人の意向を優先させて生きていると、他人の要求はわかっても、
自分が何をしたいのかがわからなくなる。

他人の顔色を窺いながら育った子供たちは、
成人した後も周りの顔色を敏感に察知し、摩擦回避に努める。
だから、職場や学校では潤滑油的な存在となり、
周りのみんなから愛される(「嫌われない」といった方が正確)。
八方美人は、職場の同僚程度の遠目の人間関係は得意中の得意。
でも、恋人との関係や、結婚生活ではとても苦労をすることになる。

今日はもう眠いから、なぜ、どういう苦労をするかを後日まとめます。

追記
親が子供を愛さないなんてちっとも珍しいことではない。
子供をちっとも愛していない親はとても多い。
愛していない親に限って、子供に恩を売る。
自分がいかに子供を愛していたかを切々と語るような親は、子供を愛していない。
そして、愛されていない子供ほど、親からの愛を疑おうとしない。
疑うと、厳しい現実に直視しないといけないから。


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