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無私の母という独裁者 [疵痕]

俺は相当に辛口な批評家で、言葉で他人を引き裂くのに躊躇も手加減もしない。
それは、俺の生育環境で自分の身を守るために必要なスキルであった。
戦場で生まれ育った人間は、引き金を引くのに躊躇をしないのと同じことだ。
母はそれほど口が達者ではないので、やがて子供に口では勝てなくなった。
正面から戦いを挑んでは分が悪いと悟った母は、
「かわいそうな無私の母」を演じることで、罪悪感で子供を支配した。
「おまえは、子供のために全てを犠牲にしてきたこの母にそんなことを言うのかい?」、と。
この作戦変更は効果的であり、母は引き続き有利な立場に立ち続けた。

裁く力関係が逆転した後も、両親は親という有利な立場に守られたままだった。
俺の裁きは、両親に対しては専守防衛であり、
彼らが自分の領土に土足で踏み込んできたときのみ効力を発揮した。
自分たちが不用意な戦を仕掛けない限り、両親は安全だったのだ。
そして、戦況が悪くなると、
父親は「誰のおかげで食べさせてもらっているんだ」と暴力をふるった。
母親は、子供の罪悪感を刺激するという、嫌らしい切り札を持っていた。
両親は、相変わらず子供を好き勝手にシメ続けた。

父の粗暴な支配と、母の陰湿な支配では、明らかに母の支配の方がたちが悪い。
父の粗暴な支配は、子供の目から見ても明らかに理不尽だから、
子供は父を憎むことができた。
父は、仕事人間で家にほとんどいなかったし、休日は家にいないようにしていたので、
土日の夕方以降さえ凌げばそれで良かった。
休日の父は、唯一無二の友達のテレビを見ながら、昼過ぎから酒を飲み始める。
笑点が終わる頃にはすっかりできあがり、家族に絡み始める。
この時間帯から、酔いつぶれて寝るまで、部屋にこもって存在感を消して凌げばよい。

幼児は母親に対して絶対の信頼と愛情を持っている。
その絶対性を維持するための道具として、罪悪感で縛る。
● 親は絶対的に偉くて理不尽なことをしても許される。
● 母は子供の犠牲になったかわいそうな存在である
この2点を物心が付く前にたたき込むことで、母は家庭の独裁者になった。
独裁者に逆らう人間は、容赦なく道徳的に糾弾された。
「おまえは子供のために全てを犠牲にしたこの母に心ない振る舞いをするのか?」
この罪悪感による支配は非常に効果的だった。
母は同情を引くための演技をするだけで、子供が自分で傷つくのだ。
虐待の後も残らないし、自分は善意のかわいそうな母でいることができる。
被害者である子供ですら、真の加害者を理解せずに、自分を責めるのだから完全犯罪だ。

これは日本の多くの家庭でおこなれている教育であり、日本の母の愛の本質なのだ。
日本中の多くの家庭で「かわいそうな無私の母」による独裁が今も行われている。
無私の母は、子供の罪悪感を刺激することで、子供をコントロールする。
罪悪感を刺激されすぎると、子供は心理的な自傷行為をするようになる。
症状が悪化していけば、実際に自傷をするようになるだろう。

罪悪感に苛まれながら、内なる目に監視されて、自分で自分を裁き続ける。
この構図に気づかない限り、独裁者が死んだとしても、支配をされたまま。
「子は親を疑うべからず」というルールをすり込まれていた場合、
子供が精神的に自由になるのは絶望的だ。


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裁かれる人から、裁く人へ [疵痕]

裁かれて育った人間の最大の不幸は、
当たり前のように他人を裁いてしまうことだ。

親子関係は、人間関係のベースになる。
どれだけ、憎んでいようと、嫌っていようと、
否応なしに、支配されてしまう。
表面的な行動では、親とは別の道を進んでいるつもりが、
裁くという行動原理は、しっかりとすり込まれていた。
両親とは、表現は違えども、
裁く人であるという根っこの部分で同じ穴の狢だった。

こうであるべきというスタンダードを相手に一方的に押しつけて、
相手がそこから外れるとストレスに感じる。
ストレスが臨海レベルに達すると、正義の刃で相手を容赦なく断罪する。
裁く人間は、当たり前のことを我慢したあげくに、
控えめに主張しているつもりでいる。
正義は自分の側にあると盲信しているが故に、手加減がないし、
相手の言い分を頭ごなしに否定することになる。

自分の正義を他人に強要する時点で、俺は間違えていた。
独りよがりの正義を捨てて、他人を裁くのを辞めない限り、
まともな人間関係が育つはずがない。


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裁かれて育った人間の末路 [疵痕]

俺も姉も、両親に受け入れられた記憶が無い。
両親は、常に親絶対的に強い立場から、一方的に、
子供を、監視し、裁き、罰する存在であった。
彼らは「子供のため」という大義名分の元、
子供のあら探しをして、シメ続けた。

子供には、自己弁護の機会は(強制的に)与えられた。
子供の言い分を聞くというのも、子供を理解するためではなく、
裁判が公正に行われているということを示すための儀式にすぎない。
裁判官と検察が同一人物なんだから、弁護人に勝ち目はない。
裁判が始まったら最後、被告人に有罪判決が出るのは確定的だ。
だから、裁判を起こされることを防がないといけない。
そのためには、親に弱みを見せないことだ。

物心ついたときから、何かを親に相談するという選択肢は無かった。
親が、親身になって、一緒に考えてくれるなどあり得ないことだ。
失敗がばれたら最後、鼻血も出なくなるまで裁かれて、有罪判決を言い渡される。
だから、困難な状況に陥ると、親に悟られないようにびくびくしながら、
一人で途方に暮れるのだった。

俺と同じように裁かれて育った人間には、独特の臭いがあり、すぐにわかる。
裁かれて育った人間に共通する特徴は次の通り。

  • 自己否定的であり、それを隠すために虚勢を張る。
  • 自己否定感を打ち消すために努力をするので、周りの評価は高い。
  • 他人に頼らないし、他人に弱みは見せない。
  • 自分の正義で、容赦なく他人を裁く

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祖父思いの俺は、法事を欠席 [疵痕]

葬式が終わってほっと一息ついたのもつかの間、
49日というナイスなイベントがあるらしい。
妹からメールで出欠確認をされた。
忘れていたときに嫌なことを思い出すと、ダメージが大きい。

半日、悩んだ末に、欠席することにした。
もし、今回の法事に出席したら、次の法事にも連絡が来て、
またまた嫌な悩み方をしないといけない。
勝負は何でも出会い頭。一発目なんだよ。
最初にずるずる行くと、次はもっときつくなる。
ということで、ここは欠席するのが良策。

そういえば、葬式の時に祖父の棺を霊柩車まで運びながら、
「クズ野郎は、地獄で業火に焼かれろ」とか思ってたんだよな。
俺が欠席したら、呪われないですむから、じいちゃんもうれしいに違いない。
ということで、祖父思いの俺は法事を欠席。
めでたし、めでたし。


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祖父の葬式 [疵痕]

母の実家に行くのは15年ぶりぐらいかな。
小学生の頃は、それなりに楽しかったな。
田んぼと山があって、オニヤンマとかタガメとかいろいろいた。
そのうち、押しつけがましい祖父が嫌になって行かなくなった。
「たまには顔を出さないとお年玉をあげないぞ」と電話で言われて、
「だったら、いらない」と即答したのは中学生の時だったか。

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両親と会ってきただよ [疵痕]

先週末、母から電話があった。
母方の祖父が亡くなったとのことでした。
さすがにスルーはまずいかなと思い、
妻と子供達をつれて、通夜と葬式に出かけていたのです。
それで、ブログの更新が途絶えていたのですよ。

対決のあと初の親子の対面だけに、マジで緊張しただよ。
初デートの時よりも緊張しただよ。
向こうも思うところはあるようで、妙な緊張感が漂った。
母は作り笑いで腫れ物を触るような感じだし、
父はそっぽを向いて一言も口をきかなかった。
この殺伐とした雰囲気が、俺には実に快適だった。
これが俺たち親子のあるべき姿だなと実感した。

俺ら親子の心の距離は、他人よりもずっと遠い。
それなのに、仲良し親子ごっこをやろうとすると、空しくて疲れる。
対決を経て、心の距離に合った殺伐とした関係になれて良かった。
これなら、たまには両親に会っても良いかなと思った。
5年に1回、30分ぐらいなら、なんとか我慢できそう。

次に会うは、祖母の葬式だろう。
俺と両親が険悪なのは、自業自得なんだけど、妻には申し訳ない。
こんな親子関係に巻き込まれて良い迷惑だろう。
ということで、次の葬式には自分一人で行こうと思った。


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批判に答える その3 [疵痕]

ここへの回答です。

>人の痛みが解らない人に限って自分の痛みは解れと言う・・・
俺の痛みを理解して欲しいなんて、どこで言ったかな?
他人の痛みはわからないよ。だって、違う人間なのだから。
俺には他人の痛みはわからない。
ただ、わかるのは自分の痛みだけ。
自分の痛みだけで、いっぱいいっぱいだから、
他人の痛みなんてわかりたくもない。
俺の痛みを誰かに理解して欲しいなんて思わないけど、
ただ、理解した気にはならないで欲しい。
俺が親を切り捨てる痛みは、他人にはわからない。
親を切れずに、引きずられていく痛みは、俺にはわからない。
当たり前のことだよね。

両親にも、俺の痛みをわかって欲しいとは思わないし、理解できるとも思わない。
ただ、俺のことよりも自分たちの精神安定を重視したことを認めさせたかった。
俺のためと称して、自分たちの精神安定を求めたことを示したかった。
でも、両親は戦わずに逃げてしまった。
戦わずに逃げると言うことは、戦ったら負けるという自覚があることで、
要は認めたのと同じことだと勝手に理解している。

>まったく自分勝手、エゴの塊。
自分勝手とか、エゴイストというのは、俺にとって最高の賛辞。
エゴの塊になりたい。それが、俺の理想。もっと、褒めてください。

>自分も人の親なら自分の子供に同じ思いをさせない事の方が先決!
>何をチマチマ、まどろっこしい・・・男として器が小さ過ぎ!
>これっぽちの愛情で育つ子供が可哀想・・・ちっとも全身で子供を守ってない。
子供のために最善の道を選んだと思う。
今のところは自分の判断が妥当だったと思っている。

>口先だけ・・・最低だ。
>奥さん任せの子育てで父親として得たものなど知れてる・・・
>付属のオマケじゃあるまいし。
俺の子育てについて語る根拠はないはず。

>親を責める前に・・・まず!
>自分の子供が自分に不満がないか聞いてみたら?
子供はダメな親を正当化しようとするので、
親が子供を愛さない場合には不満を自覚できない。
だから、子供に親の不満をきいて、すぐに具体的な答えが返ってくるなら正常。
「親は素晴らしくて、不満は無いです」っていう子供は病気。
子供には、好きなだけ批判させればよい。
息子から「パパ嫌い」と言われると、なんか嬉しい。

>奥さんに子供を産んで育てる
>って事がどれだけ大変かを一度、聞いてみたら?
妻に、「俺も妊娠や授乳をしてみたい」と言ったら、
「あなたは3日で音を上げるよ」と言われた。
でも、やっぱり、出産や授乳はしてみたい。
体と体の生物的なつながりが希薄なのが父親の寂しさ。

>自分が親にした仕打ちは自分の子供によって必ず返ってくる!
そうそう。まさにその通り。
だから、子供に生きて欲しい人生を自分が歩まないといけない。
子供には、親なんて切り捨てて、自分の人生を生きて欲しい。
俺は、ずいぶん回り道をして、そこまでたどり着いたけど、
子供達には最初から親の顔色なんて見ずに、自分のことだけを考えて欲しい。
それが、俺の子育ての目標です。

>忌わしい因縁を断ち切るのは自分、
>人身御供になる覚悟がないなら最初からやめてとけ!
自分一人で断ち切れるほど、甘くない。
両親と自分を犠牲にして、子供が助かる。
その結果、俺は母の無い子で、母は子のない母になる。
まあ、母には自分の思い通りになる姉と妹がいるからOKだろう。
俺は誰から愛されなくても、それで良い。
妻には子供の方を向いて欲しいし、子供には自分自身を見て欲しい。
俺は自分が愛する人がいればそれで良い。

>この話はこれでおしまい!時間の無駄!
>貴重な時間がもったいない!!
この記事に答えていくことで、今回の対決について、
自分の理解がかなり深まったと思う。
この記事を書いてアップしてくれたことにとても感謝しています。
願わくは、俺のblogにコメントとして残して欲しかったけど。
何にせよ、ログが流れる前に見つけられて良かった。


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批判に答える その2 [疵痕]

ここへの返事です。

>ワタシにはいい年して親にだだこねて甘えてるようにしか見えない!
両親からサービスを受けていて、そのサービスを増やして欲しいというのが甘え。
たとえば、お小遣いをもらっていて、お小遣いを増やして欲しいというのは甘え。
俺の場合は、関係自体が苦痛だから、それを切ろうという提案。
両親にずっと貢いできて、これ以上は貢げないから縁を切ろうというわけだ。
俺の定義では、これは甘えではない。
むしろ、こんないい年まで親にむしられ続けたという方が、恥ずかしい話だ。

俺は物心ついたときから、筋金入りの依存症であって、
親のために何かをするのは、とても楽。
むしろ、親から何かしてもらうのは、心の負担。
その依存症が親を捨てるって言うのは、麻薬中毒者が麻薬を止めるぐらいつらい。
親を許したと称して、ぬるま湯関係を続けてる方が100倍楽です。

>本当に対決する気があれば、原稿用紙など必要ない・・・
>自分の身一つあればいいんじゃないの?
>親と真直ぐ向き合って、
>自分の言葉で腹の底から本音を吐き出してぶつかっていけばいいんじゃ?
>いい年した子供が親に作文を聞かせるようなもので何が対決だか、
>バカバカしくて話にならない。
いろんな意味で原稿は必須だったと思う。
まず、親を前にして、親を否定するのはとてもつらい。
原稿がなければ、日和っていたかもしれない。
あと、心に浮かんだことを話しても何も伝わらないよ。
「書くことと考えること」でも書いたように、
文章にして確かめながらでないと、自分の本音ってわからない。
その場の思いつきでは、「私は傷ついた」という感情論にしかならない。
対決で大切なのは、「両親が愛と呼んでいるものは愛ではない」ということを、
理路整然と示すことだ。
そのためには、何をどういう順番で話すかという段取りが重要になる。

出たとこ勝負で、感情をぶつけあっても、
お互いになんとなくすっきりするだけで、何も変化しないだろう。
瞬間的なカタルシスは得られるかもしれないが、何も解決しない。
これから対決を考えている人にも、原稿作成は強くお勧めしたい。

>『結局、親にも相手にされず』ってか、
>親よりもこの人に問題有り!かなり痛い・・・
相手にされないことはわかっていたよ。悲しいけどね。
両親は、自分たちの思うとおりの行動を取る息子は大切にするけど、
息子の本心には関心が無い。
そのことは、うすうすは気づいているけど、見ないふりをしてきた。
それを認めるためには、それがどう見ても自明な状況を作る必要があった。
その場の感情ではなく、充分に考え抜いた本音をぶつけても相手にされない。
ベストを尽くしても、門前払いなら、もうどうしようもない。
このどうしようもないという現実を、認めることで、先へ進める。

俺はそのために適切な舞台を作って、相手にされないことを確認した。
だからこそ、俺の対決は成功だったわけ。
もちろん、痛いよ。痛いけど、しょうがない。
自分が痛い人なのも自覚してます。今日に始まったことじゃないし。


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批判に答える その1 [疵痕]

ここへの返事です。

>正しく、蛙の子はカエル!
これはその通り。本当にそうなんだよ。
だから苦労してるんだってば。

親が依存症だと、自分も依存症になる。
依存症的な愛され方しかしていないから、
依存症的な愛し方をしてしまう。
特に問題なのは、愛情の形を一つしか知らなくて、
それが素晴らしいものだと信じているときに、
自分の愛し方を疑うのは難しいと言うこと。
俺は、自分には他人を愛する能力が無いと思っていた。
でも、依存症とは縁遠い妻と出会って、
自分の方法が根本的に間違えていることに気づいた。
そして、今まで慣れ親しんだやり方を変えたら、
かなり上手くいくことがわかった。
これは、俺にとっては、人生がひっくり返るような大発見だった。
俺が愛と呼んでいたものは、全部、間違いだった訳だ。
この知識を俺の過去の相方であった尽くす女達にも教えたいと思った。
これが、俺が尽くす女に延々とメッセージを送り続ける理由。

自分が親になったとき、自分が本能のままに子育てをすると、
子供を依存症にする危険があると思った。
だから、子育てにおいては妻にイニシアチブを取らせつつ、
家事などで、妻を支えるのが良いと思った。
俺が子育てにできる最大の貢献は、妻の状態を良く保つこと。
それは、自分なりには実践できていると思う。

あと、自分の生き方を変える必要があるとも思った。
自分が依存症的な生き方をしていたら、子供は必ず背中から学んでしまう。
そこでの最大の障害は実家だった。
実家は、まさに依存症の巣窟で、家族ではなく家族ごっこだ。
俺は、家族全員が本音を出せて、それが等しく尊重される。
そんな家庭を作ろうと思っている。
一方、実家では誰も本音を出さない。
本音を出さないことで、憎み合いながらもなんとか均衡が保たれている。

自分の家庭が理想に近づくほど、実家が苦痛になった。
本音コミュニケーションの良さを知れば知るほど、
実家の欺瞞関係がつらくなった。
本音を抑圧するというのは、かくもストレスがたまるものかと驚いた。
自分が20年以上、よくここで生活してきたものだと思った。
まあ、依存症的な関係が苦痛になったといっても、それは慣れ親しんだものだ。
そのこと自体は、我慢できないことはない。
でも、自分を捨てて家族に迎合する父親の背中を子供には見せたくなかった。
子供には、自分のマイナスになると思ったら親など捨てて欲しい。
だったら、自分がちゃんとマイナスになる親を捨てないとダメなのだ。
子供が学ぶのは、親の言葉ではなく、親の背中なのだ。
今回、両親との断絶に結びつくような対決をした背景には、
実家との関係を続けながら、子育ては出来ないという切迫した事情があった。

うちの家系では、子供は常に親の顔色を見て育った。
大人になっても、自分の子供よりも自分の親ばかりをみていた。
そうすると、必然的に子供は親の顔色を見るようになる。
無関心によって、子供を縛る悪循環だ。
だから、俺は親から背を向けないといけない。
さもないと、子供が俺の顔色を見るようになる。

依存症なりに精一杯愛してくれた両親には深く感謝をしている。
彼らは良くやったとおもう。
両親なりに愛してくれたから、俺は非依存的な関係へと飛び出せた。
でも、その結果として、両親との断絶を余儀なくされた。
これは悲しいけれど、仕方がない。

一流の音楽家を作るのは三代かかるという。
音楽家を育てるには、それなりの環境が必要で、
その環境を整えるだけで2代はかかるのだ。
依存症を脱するにも3代はかかるとおもう。
両親は、俺に自分が依存症であることを自覚させた。
俺が両親を捨てて、子供の方を向くことで、
子供は親に縛られなくなる。

蛙の子はカエルというのは冷酷な真実だ。
俺がカエルなのは、もう確定事項で、仕方がない。
でも、俺は自分の子はカエルにしたくない。
だからこそ、両親ときちんと断絶する必要があった。
それが対決の核心。

>あれだけ息巻いていた対決とやらの意味って何?
>あんな茶番劇、まったく笑わせる。冗談じゃないって感じ・・・
>一体、何がしたいんだか?
に対する回答はここまで。


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姉からのメール [疵痕]

対決の前の日に姉からメールが来た。要点は以下の通り。

  • 100%の正しい人はいない
  • 両親に感謝する部分もあるはず
  • 必要以上に傷つけあわないこと 

俺は深くため息。
姉は完全に両親に取り込まれている。

もちろん、自分も親も100%正しくはない。
だからこそ、お互いの正しさをぶつけないといけない。
自分が100%正しくないからと言って、親の言うなりになるのは馬鹿げている。

俺だって、親には感謝している。
だからこそ、親を切り捨ててでも、俺は幸せにならなくてはいけない。
自分が幸せになることが親への最大の恩返しだ。
たとえ、今は親から恨まれようと、
俺が幸せであると言うことが最終的には両親を救うはずだ。
あと、感謝する部分が少しでもあったら、残りは全て我慢しなくてはならないっていうのは変だ。

親を傷つけたらいけないと脅迫的に思っているのがダメなんだよね。
自分の正直な気持ちをぶつけるというのは、
人間関係を深めるために必要不可欠なこと。
しかし、子供は自分の感情を表現することが禁じられていた。
それが、あの家のゆがみの原因なのだ。
結果として、お互いに傷つくとしても、
本音を交換し合うことを避けていてはダメなんだよ。
真実を避けることでのみ維持される関係は空しい。

なんか、悲しくなってしまうね。
姉は両親の一番の被害者だと思う。
親が子供に依存すると、依存された子供が依存症の親をかばうようになる。
被害者が加害者をかばうっていうのは、とても悲しいことだ。
兄弟の中で一番愛されたのは俺であり、それ故に毒になる家族から脱退できた。
姉は受けた愛情が少ないが故に、両親に縛られ続ける。
両親と決別する以上、両親に取り込まれている姉とも決別することになるだろう。
なんか、切ないね。


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