両親と対決してきた [疵痕]
実家に行って、両親と対面して、本音をぶつけてきた。
対決に当たっては、A4で6枚の原稿を準備していった。
過去の出来事。
そのとき自分はどう感じたか。
それが今はどのような影響が残っているか。
そういった状況証拠を積み重ねて、
両親が子供を愛しておらず、子供の尊厳を傷つけていたことを説明した。
淡々と、順序立てて、話したいことは全て話した。
それに対して次のようなリアクションがあった。
父
愛していないというのは間違いである。全部、お前の勘違い。
でも、お前がそう思うなら、違うといってもわからないだろうから反論しない。
(反論せずに全否定。土俵に上がらずに勝利宣言。父らしいやり方だ。)
かっとして、いろいろしたことは認めるが、根底には子供への愛があった。
それは期待の裏返し。子供の成長を願ってのこと。
(「子供のためを思って」と言えば全てが正当化されると思っている)
母
子供の成長とともに親も変わる。
お前には、3歳のかわいい子供の親の気持ちしかわからない。
子供が思春期になれば、また別の気持ちになる。
(「子供には親の気持ちはわからない」のニューバージョン登場!
この理論で行くと、子供は親の年齢を追い越すまで、親を批判できない)
近頃はインターネットなどで子供の権利などがもてはやされているから、
こんな批評家のような子供になってしまった。
(批評内容ではなく、批評という行為自体が悪いようです)
父
お前も将来子供からこういうことを言われないようにしろよ。
(でたっ。必殺、捨て台詞。)
俺
子供が、ちゃんと本音を言ってくれれば、その内容がどうであれ、俺は誇りに思う。
教育に関して、最低限の義務は果たしたと言うことだから。
あなた方は酷い親だったけど、俺が今日の話をしたことは誇りに思ってもらいたい。
両親、苦笑。
その後、父と母で「俺は思いこみが激しいから、しょうがないなぁ」という話をして、
二人だけで納得していた。
「俺は現実が見えてない頭の悪い人」というのが、両親のファイナルアンサーらしい。
とほほ。
でもって、父から「じゃあ終わりにしよう」と一方的に言われて、対決は終わり。
見事なまでに、予想通りでした。
具体的な事柄には反論をせずに、俺の意見は全否定。
そして、我田引水な身勝手理論で、自分たちを正当化。
「今のお前にはわからないだろうが、我々は正しい」と繰り返すだけ。
全ては俺の思いこみと言うことにして、終わり。
何の反論もせずに、自分たちの正当化を主張するとは、まさに自己正当化の達人だな。
だてに30年も同じことを繰り返して来たわけではない。
流石だよ、ママンとパパン。
普段はいがみ合っているくせに、こういうときだけ息がピッタリ合うのが笑える。
やはり、話すだけ無駄でしたが、無駄だと確認できたことが最大の収穫。
両親には、過去と向き合う勇気がないことが良くわかった。
子供の本音と向き合う勇気がないことが良くわかった。
コミュニケーション能力が欠如しており、他人を愛せない人間だということが良くわかった。
寂しいですが、いろんな意味であきらめがついて、すっきりしました。
いまだにアドレナリンが出ているようで、とても高揚しています。
同時に、なにか空っぽになったような気もします。
対決にあたって、いろいろと悩ましいことも多かったのですが、
応援コメントに背中を押してもらいました。
皆さん、どうもありがとうございました。
社会契約論から、自分の正当性を検証する [疵痕]
人間は自由なものとして生まれた、
しかもいたるところで鎖につながれている。
自分が他人の主人であると思っているようなものも、
実はその人々以上に奴隷なのだ。
民主主義の基本に、ルソーの社会契約論というものがある。
俺なりに解釈をすると、個人は強制的に社会に加入するのではなく、
自分の意志で社会と契約をすることで、社会の一員になるという考えだ。
逆に言うと、好ましくない社会には加入しない権利があるはずだ。
考えてみれば、当たり前の話なのだ。
たとえば、「あなたのおごりで飲みに行く会をつくりました。
みんなはあなたの参加を希望しているので、参加してください」
と、言われて参加する?
もちろん、参加しないだろう。
そんなバカな話は、断わる権利があるはずだ。
自分に害をなす会には、参加しない権利がある。
それは人間の基本的な権利なのだ。
周りのみんなが望むからと言って、自分を犠牲にする義務はない。
その集団に属することのメリット以上にデメリットが多い場合、
その集団から脱退する権利は保障されなくてはならない。
さもなければ、強者の利益のために、弱者が犠牲になる。
逃げるというのが弱者に認められた唯一の権力なのだ。
俺はそれを行使しようと思う。それは、俺の当然の権利なのだ。
俺には、実家の人間関係の全てが我慢できない。
俺には実家の人間関係を俺の思うように変える権利は無い。
その代わり、そこから足抜けをする権利はあるはずだ。
そして、足抜けする理由を話せと向こうから言ってきたので、その理由を話すだけだ。
考えてみると、俺がやろうとしていることは、
ごく当たり前の権利を控えめに行使するだけなのだ。
俺がこの権利を行使することで、家庭が壊れても仕方がない。
俺が当然の権利を放棄することで今まで家庭の形が保たれていたわけで、
構成員の犠牲によって成り立っているコミュニティーの方に問題がある。
対決に何を望むか? [疵痕]
俺は対決によって、両親に何らかの変化を起こそうとしているわけではない
両親が、自分たちが依存症であることを認めるとか、
過去の自分たちを悔いるとか、
子供を愛するようになるとか、
自分の本音と向き合うようになるとか、
そういったことは期待していない。
もし、そういうことが期待できるような親だったら、
これほど病んだ家庭には、なっていなかっただろう。
愛する能力がない人間から愛情を得よう努力しても報われない。
そのことを高い授業料を払って、俺はもう十分に理解している。
両親には、俺と俺の家族に干渉するなということ以外に、何の期待も無い。
では俺は何のために、対決するのか。
それは、自分の呪縛を解き放つため。
自分の尊厳を守るため。
虐げられた過去の自分を正当化するため。
両親ではなく、自分の弱さと対決するのだ。
両親はそのための舞台装置にすぎない。
自分たちの思い通りにならない息子に対する両親の反応は予想できる。
父親はいらいらして、俺の話を遮ろうとするだろう。
母親は、おろおろと泣いて、いかに自分が弱者であるかを語るだろう。
そして、二人とも自分が傷つけた子供の心と向き合う代わりに、
自分たちの行為を勝手な理屈で正当化して、俺を非難するだろう。
キーワードは「精一杯、やったのに」と「恩知らず」だ。
この両親の救いようのない対応によって、
両親には子供を愛する能力が無かったことを確認できる。
それが、対決の核心だ。
俺は、俺が親から愛されなかったこと、
そしてこれからも愛される可能性が無いことを確信したいのだ。
その点をしっかりと体感することで、俺は先へ進める。
両親と対決することになった [疵痕]
実家と音信不通になって、半年。
とても快適な日々をすごしていたのだが、平穏は1本の電話で壊された。
母だ。
母曰く、
自分は精一杯子育てをしたから、息子から疎まれる覚えは何一つ無いとのこと。
そして、自分の体調が悪いこと、鬱病気味なことなどを切々と語った。
俺は、同情を引くための見え見えの猿芝居にうんざり。
ここに来て、俺の腹は決まった。
両親からフェイドアウトをしたかったが、それは所詮叶わぬ夢。
ならば、両親がいかに俺の尊厳を損なってきたかということを伝えて、
きっぱりと断絶しようと思う。
俺が育った家庭には真実なんて一つもなかった。
全て欺瞞。
良い家族ごっこ。
子供思いの親ごっこ。
親孝行な子供ごっこ。
仲良し家族の演技の裏では、支配と服従。
父は不機嫌になることで、家族を支配した。
いつ不機嫌になるかわからない不発弾におびえる日々。
俺にとって、週末の自分の家が世界中で一番落ち着けない場所だった。
母は「可哀想なお母さん」を演じることで、子供を罪悪感で支配した。
その一方で、父を甘やかすことで、父を依存的にして支配した。
その結果、父はアル中になり、より暴力的に家庭を支配した。
両親の支配ゲームの陰で、子供はいつも気まぐれな暴君たちに振り回され続けた。
でも、こういうのが普通だと思っていた。だって、それしか知らないから。
愛情と安心感の代わりに、父親から劣等感、母親から罪悪感を植え付けられた。
そして、俺の心の中はやり場のない怒りで満ちている。
この怒りは、正当な場所に返さなくてはならない。
父は自分が成功者であるということを証明する手段として子供を使った。
子供の評価ばかり気にして、子供が幸せかどうかには無関心だった。
子供が自分の思ったようにできないと、イライラして、殴った。
共依存である母は、自分の存在意義を子供に求めた。
子供の失敗をめざとく見つけると、嬉々とした表情で、
「やっぱりお母さんがいないとダメねぇ」と言う母。
両親は、愛情という名の下に子供を利用しただけだ。
両親は、精一杯自分を支えるために子供を利用しただけで、子供を愛したのではない。
自分の精神を保のに精一杯で、子供なんてどうだって良かったのだ。
二人とも、それほど弱い人間だった。
弱い人間ほど自己欺瞞をするし、子供は親の欺瞞をそのまま信じる。
「この家に生まれてこれて自分はなんて幸せなんだろう」、
「でも、自分には能力がないから、この家にはふさわしくない」
そう思って成長したわけだが、実際には全て逆。
あの家に生まれたことが不幸だった。
そしてあの毒になる家から離れれば俺は幸せだ。
俺が本音をぶつければ、欺瞞家族は崩壊するかもしれない。
でも、そうなっても仕方がないと思う。
全ては自業自得なのだ。
家庭なんて、とっくに崩壊している。
そもそも、家庭と呼ぶに値するものは、最初からあの家には無かったのだ。
だから、俺が「王様は裸だ」と言えば、全てが終わる。
寂しい女に夢はつきもの [疵痕]
寂しい女ほど、色彩豊かな夢をみる。
老いた女は、美化した過去を懐かしみ、
若い女は、未来に過剰な希望を託す。
バラ色の夢を見ながら、
ただ、黙々と灰色の日々を生き、
最後まで、現実から目をそらしながら、
死んでいくのだろう。
寂しい女の来世に幸多かれ。
アーメン
Adult Childrenは免罪符じゃないでしゅよ [疵痕]
AC系のサイトにいくと、自称ACのかわいそうな人たちで溢れている。
「俺は可哀想なACです!」とカミングアウトすると、
「私もACです」、「私もACです」とレスがつき、みんなで傷をなめあう。
そして、世間一般の人のACに対する無理解を愚痴る。
俺はどうもその空気が苦手だ。
彼らは、自分たちは罪のない無力な存在で、
他人から保護されてしかるべきだと思っている。
それは、とんでもない勘違いだと思う。
ACは自らが克服すべき病気であって、免罪符ではない。
ACがその責任を問えるのは、その原因である親だけだ。
周囲に「私はACだから大目に見て」と権利を主張するのは筋違いだ。
親以外の人間には何の責任もないのだから。
そもそも、「ACだから大目に見て」という甘えた発想自体が、AC的ではない。
他人を支えるために自己犠牲をしてしまうのがACのACたる由縁。
筋金入りのACは、自分がACであることを否定する。
否定しきれなくなっても、他の人には秘密にしてくれと嘆願する。
そして、「自分は大丈夫だから、心配しないでくれ」と言いつつ倒れていく。
それが正しいACのあり方だ。
病気を盾に自分の主張を通すという発想はACとは対極だ。
ACを免罪符に使う奴の正体は、弱者の皮をかぶったちゃっかり者だ。
権利を声高に主張する自称ACたちは、ACではなく別種の依存症だろう。
ACという概念は、病気の症状を理解して治療するためにある。
ACに関しては、かなり研究が進んでいるし、
一般向けのself helpの本もたくさん出ている。
それらを学ぶことで自分の弱点を把握し、努力で克服していくことができる。
本当にACをなおしたいなら、自分の症状とそこから起こりうる問題点を整理した上で、
歯を食いしばって普通の人間のフリをすることだ。
いつか普通の人間になれる日まで。
自分の不幸は蜜の味? [疵痕]
不幸な人間の何がダメって、幸せになる気がないことだ。
「幸せになりたい」が口癖だけど、それは口先だけ。全然、本気じゃない。
この日本という恵まれた国では、幸せになるチャンスなんて山ほどある。
しかし、不幸な人間はそういうチャンスをつかもうとしない。
それどころか、普通にしてれば上手くいきそうなときは、わざわざ不幸を呼び寄せる。
不幸な人間は幼少期から、他人の関心や愛情を感じる機会がなかった。
他人から期待できる唯一の好意的な反応は、同情だったのだろう。
不幸な人間にとって、他人からの同情は密の味。
今日も同情を求めて、不幸のネタを探す。
不幸な人間にとって、自分の不幸は同情を得るための切り札だから、それを決して手放さない。
同情を得るために「かわいそうな私」でいる必要があるのだ。
一つ不満が無くなれば、別の不満を見つけだす。
そうやって、いつだって不満たらたらなのさ。
不幸な人間は、どんなに恵まれていても不幸なのだ。
不幸な人間が不幸な自分語りをすれば、共依存が同情して引っかかる。
共依存は、「今まで不幸だった君を私が幸せにして見せる」と張り切る。
でも、共依存が逆立ちしたって、不幸な人間を幸せにできない。
幸・不幸は個人の心の問題だから、本人が不幸でいたいときに他人にできることは何もない。
一人で好きこのんで不幸なだけなら無害だけど、不幸な人間は必ず周りを巻きこむ。
というのも、不幸な人間は他人の幸せを何よりも憎むからだ。
特に、パートナーが自分とは無関係な場所で楽しい時間を過ごすことは許されない。
それは自分に対する裏切りであり、自分には報復の権利があると不幸な人間は考える。
そして、パートナーの幸せを奪うことに尽力する。
パートナーの幸せを奪い、自分以下の状態に貶めることに成功すると、
同情の涙を流しながら、優しく語りかける。
「あなたを理解できるのは、世界中で私だけ」と。
人生は寂しい・・・コーヒーはネスカフェ [疵痕]
常に、心の奥からしみ出す寂しさがある。
油断をすると、すぐに寂しさに飲み込まれてしまう自分がいる。
寂しさを癒すために、人は他人と寄り添いあう。
しかし、他人を利用して寂しさを癒そうという試みは、必ず失敗する。
孤独な人間同士が寄り添いあって、やっと独りじゃなくなったと安心するのもつかの間、
気がつけば寂しさに飲み込まれパニックになる。
こんなはずじゃなかったと、一緒にいる他人を非難するのは愚かなことだ。
寂しさは誰かと一緒にいても、消えるものではない。
他人にできるのは、寂しさを紛らわすことぐらい。
紛らわしたところで、やっぱり寂しさはそこにある。
寂しさとは、自分の心の問題なのだ。
嫌なことを酒を飲んで忘れても、しらふになれば再び思い出すのと同じこと。
何かが足りないから寂しいのではなく、
生きるとは寂しいものなのだろう。
寂しさに溺れながら、それでも生きていくしかない。
寂しさから逃れようとせずに、寂しさに耐えることを目指すべきだ。
殺人の夢-浮遊する殺意 [疵痕]
高校時代に、殺人の夢をよく見た。
ディテールはその都度違うのだが、あらすじはいつも同じだった。
誰かを完全犯罪で殺して、死体を隠蔽したところから、夢は始まる。
完全犯罪だから、罪を問われる心配はないのだが、
罪悪感にうちひしがれて、殺さなければ良かったと後悔している。
ちょうど、「罪と罰」みたいな感じかな。
精神的に追いつめられて、もう駄目だと思う頃、目が覚める。
汗をぐっしょりかいていて、しばらく茫然自失。
「ああ、夢で良かった」と思うのだった。
何十回と殺して、死体を隠しているのに、
誰を殺したかは、わからなかった。
だから、殺害対象は特定されていないと思っていた。
ある夜、具体的な殺害対象が明らかになる前は。