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男の子を育てるために知っておくべき事 [教育論]

男女の思考方法の違いは、幼少期から存在する。
この違いが理解できない母親は、男の子の子育てに失敗する。

女の子の会話は脳髄反射に近い。
ほとんど連想ゲーム的なわけ。
だから、彼女たちはぽんぽん言葉が出てくる。
その代わり、じっくりと考える能力が育たない場合もある。
幼少の頃、利発そうに見えた女の子が、
往々にして、成長と共に頭が悪くなっていくのはそのせいだ。
彼女は元々、思考していなかったのだ。
女性の思考能力のポテンシャルが男性よりも劣るわけではない。
脳髄反射的な会話能力と、共感力によって、女の子は思考を必要としない。
必要としない能力は発達しづらい。それだけのことだ。
女性であっても、ちゃんとしたトレーニングを積むことで、
男性と遜色がない思考能力を身につけることは可能である。

脳髄反射的な会話能力と、共感力を持たない男の子には、
自分の頭でしっかりと考える以外の手段はない。
ただ、彼の思考能力は貧弱であり、考えが纏まるのに時間が掛かる上に、
他人からは意味不明な表現をしてしまうことも多いだろう。
母親の多くは男の子はバカだと決めつけるが、それは全くの誤りだ。
男の子はより高いハードルを跳ぼうとしているのだ。
言葉がなかなか出てこない男の子には待つこと。
しっかりと考える時間をあたえることで、思考力が育つ。

母親が男の子が必要とする時間を待てないと、男の子の思考能力は阻害される。
すぐ上におしゃべりな姉がいた場合には、会話が阻害されやすい。
思考が阻害されやすい環境だと、考える根気を失い、粗暴になったり、
思考に専念して、外部への働きかけをしなくなったりする。
どちらにしても、コミュニケーション能力は阻害される。
男の子を育てるのに大切なことは、信じて、待つことだ。
考えをまとめるのに充分な時間を与えること。
そして、出てきた言葉を肯定すること。
どんなに稚拙であっても、彼の言葉は手作りなのだから。

思春期になると、男の子は自分の思考を阻害する要因を排除するようになる。
この段階になると、「別に」や「何でもない」が出てくるようになる。
これは男の子にとって自然な成長過程であり、
男性的な思考能力を発揮するための準備が出来たサインなのだ。
本来はお赤飯を炊いて、祝うべきイベントだろう。
しかし、多くの母親はこれを拒絶ととらえ、
何でも話してくれた子供時代に戻そうとして、あれこれ詮索をする。
これが最悪な行動であることは明らかだ。
全てを共有するのが愛情だと思っている母親は、
夫に次いで息子からも拒絶される。

思春期の男の子は多くの問題を抱えている。
そして、それを自分の力で解決しようと努力する。
だから、ダンゴ状態がとても長くなる傾向にある。
この時期は、男の子の心の成長期であり、内面がぐんと成長をする。
ここで、成長を阻害すると、男の子は男になれない。
過干渉な母親、支配力が強い母親は、この段階で男の子を完全にダメにする。

思春期の男の子を育てる上で大事なことは、
彼が放っておいて欲しいという意思表示をしたら、干渉しないこと。
向こうから話しかけてきたら、真摯に耳を傾けること。
つまり、大人の男として、適切に扱えばよいのだ。


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公園は最高の教室 [教育論]

今日も長男と公園で遊びまくって、くたくたです。
息子と公園に行くのは楽しい。
楽しそうな息子を見るのは楽しい。
息子が周りの子供に働きかけて、
楽しく遊べるようになったことが嬉しい。
それにしても、公園というのは子供にとって最高の教室だ。
楽しく遊んでいるうちに、心も体も目に見えて成長する。

今日は長くて急な滑り台を初めて逆さに登り切って、大喜びでした。
出来なかったことが出来たときの嬉しそうな顔。
以前に何度かチャレンジして、断念していたことを知っているから、
この成功がとても嬉しいことが俺も一緒に大喜び。
こうやって、息子の成長の喜びを分けてもらえるのは素晴らしいし、
俺が喜べば、息子はますます喜ぶわけで、喜びは共有すると増える。
そんなことを実感させてくれて、ありがとう。
公園は親にとっても得るものが多いです。


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人格分類の要点 [教育論]

さらに、まとめてみよう。

正常な家庭で育った正常な人間
親が自分も他人も肯定できるなら、子供は自分も他人も肯定できるようになる。
これが「愛された子供は、愛せるの原理」なのだ。
「僕も正しい、君も正しい」という基本姿勢を持つ。
これが人間の本来のあり方だが、その姿勢を持っている人は非常に少ない。
頻度から言えば、異常なタイプといえるだろう。


病んだ家庭で育った病んだ人間
親が自分を絶対的な存在と考えて、子供の心を否定する場合、
子供は独立したバランスがとれた存在にはならない。
親が唯一無二の絶対神として振る舞う家族をカルト家族と呼ぶことにする。
カルト家族の子供は多かれ少なかれ病んだ存在になるのだが、
その病み方には大きく3つのタイプがある。

A)尽くす女タイプ
親が子供を否定する場合、子供は自己を否定する。
そして、親の価値観に迎合することで、自分の価値を得ようとする。
迎合にもかかわらず親の愛を得ることが出来なかった場合、自分を否定する。
自尊心の低さが特徴で、他人から同意が得られなかった場合、
自分を否定して深く傷つく。
「私は間違えている。君が正しい」という基本姿勢。

B)箱入り息子タイプ
子供は親の価値観に無批判に従い、親が自分の思い通りになる子供を評価する場合、
子供は親を神のようにあがめて絶対視すると同時に、
そして絶対的な存在である親から肯定される自分も絶対的な存在だと思う。
そして、親の価値観と異なる他人を見下し、矯正しようとする。
子供が親を盲信し、そこからずれた価値観を全て否定するのが特徴。
家族のあり方が最高であり、他は認めないことから、カルト家族と俺は呼んでいる。
「僕が正しい。君が間違えている」という基本姿勢

C)はぐれ者(Black Sheep of Family)
カルト家族の価値観に染まりきれないと、カルト家族では失格者の烙印を押される。
カルト家族においては、親に迎合しないまともな子供の方が脱落者になる。
子供にとって家族は、宇宙全体に匹敵する重みを持つ。
その家族の価値観を否定して、異常者としての自分を肯定できる変人には、
家庭と心理的に断絶することで、自分を守るという選択肢がある。
「僕は僕の道を行く。君は君の道を行け。」という基本姿勢。
正常な人間との違いは、他人に対して無関心であることだ。
一見、他人に寛容に見えるが、それは心が寛いからではなく、
単にどうでも良いと思っているのだ。
他人への要求が少ないので、人当たりは良いのだが、協調性が皆無。
というか、そもそも協調の必然性が理解できていない。
人当たりはよいのに、ハンドルを握ると性格が豹変したりする。



人間の病み方には、それほど多様性はない。
自分がどういうベクトルで病んでいるかを理解した上で、自分を正常なタイプに近づけていくことを、
「自分の育て直し」と呼ぶ。
ほとんどの家庭が多かれ少なかれ病んでいる現状では、
人が人らしく生きるために、育て直しは必要不可欠である。


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教育の結果としての人格 [教育論]

子供という小さな器は自我で満たされている。
子供にとって、自分は唯一無二の絶対な存在である。
ところが現実は子供は神でもなく、最も無力な存在である。
自分の欲求と社会の制約を両立できるように子供を育てることが教育だろう。
残念ながら、そういう教育は非常に希である。

 

正常な教育の結果の健全な人間

子供は自我を保ちつつ、精神の発育とともに徐々に他人の視点を取り入れていく。
子供は愛されると、自分を肯定できるから、自我を保つことが出来る。
そして、様々な社会と接点を持つことで、様々な視点をもてるようになる。
その結果、自我を持ちつつ、柔軟に社会に対応できる人間になるだろう。
自分を大事にすると同時に、自分の周りの人間も同様に大切に出来る。

支配的子育ての結果の空っぽ人間

健全は発育段階を経て、親を含む周囲に配慮が出来るようになるには長い時間がかかる。
手っ取り早く、他人(この場合は親や教師)の都合に配慮させるためには、
まず子供に自分の意見を持つことを禁じる必要がある。
その上で、大人の都合を優先するように強要するのだ。
限られた大きさの入れ物に大人の都合を無理矢理入れれば、当然子供の自我は損なわれる。

子供を空っぽにするための常套手段が、子供を愛さないことと、哀れな親になることだ。
愛されない子供は愛を得るために親に取り入る。そのためなら、何だってするようになる。
哀れな親を持った子供は、親を支えるために、自分を捨ててしまう。
子供が自分を捨てれば、空っぽな心に思いのままのプログラムを書き込むことが出来る。
このあたりは、洗脳のノウハウと一致する。

このようにすると、本来は他人に配慮が出来るような発育段階ではない子供が、
他人に配慮できるようになる。大人の都合を優先する、物わかりの良い子供になる。
その正体は、自分を失って必死に他人の顔色を見る奴隷だ。

支配に失敗した結果の分裂気味な二重人格人間

子供を空っぽにするのに失敗した場合、その子供はどうなるのだろう?
子供は自我を持ちつつ、それが社会では否定される。
その子供は、社会的不適応と見なされて、様々な矯正の努力がなされるだろう。
自我を捨てる日まで、社会から袋だたきにされ続けるわけだ。

子供に出来る唯一の抵抗は、心の中だけだ。
行動は親に服従しつつ、心の中では自我を育てる。
心の中に境界線を引いて、外面と内面を使い分けるのだ。

外界に適応しつつ、自我も保てるので良いことずくめのように見えるが、
非常にまずいことがいくつかある。

まず、心というのは、本来、一つのものとして調和がとれている。
それを無理に分けているから、分裂症まで行かなくても境界例的にはなるだろう。
また、不本意ながら外界に適応する自分に対する嫌悪感を感じなくてはならない。
それは、服従する自分と、自分を服従させる外界への憎しみとなる。

内面の自我は、かなり未発達でバランスが悪い。
外界に出すことができないのだから、仕方がない。
現実社会で鍛えられていない自我は、非常に稚拙な段階に止まることになる。
この自我は、自己中心的な幼児的願望に支配されやすいのだ。

甘やかされた箱入り息子

自分が世界の中心だという幼児的世界観しか持っていない大人も多い。
親が子供を世間の波風から守るのが親の義務だと思って、
それを子供が成人しても続けていたりする。
キーワードは、
教育ママの自慢の息子、優等生 or おしゃれ、
人生経験が薄っぺらい、先入観が強い、尽くす女をカモにする、
親を崇拝、ナルシスト、自分に甘く他人に厳しい、
自分は褒める、他人は褒めない、すぐに他人を見下す。

 


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子供に「ごめんなさい」を言えるか? [教育論]

俺が育児において最も大切だと思うことは、
自分が間違えたと思ったら、きちんと子供に謝ることだ。
たとえば、勘違いで子供を怒ってしまったら、
どんなに気まずくてもごまかさずに謝ること。
それによって、子供に背中で教えるのだ。
人間は誰でも過ちうることを。
過ちを認める勇気を持つことの大切さを。
相手が誰であれ自分の非を認める勇気を。

自分に自信が無い親は、子供の前で虚勢を張る。
子供に弱みを見せたくないから、うやむやにごまかして謝らない。
それによって、子供は背中から学ぶ。
自分が強い立場なら弱いものは黙らせればよいということを。
弱者には、八つ当たりをしても良いということを。

虚勢を張るような奴に限って、口だけは立派なことを言う。
いくら立派なことを言っても、子供は立派に育たない。
子供が学ぶのは言葉ではなく、背中なのだ。
親が立派なことを言っても行動が伴っていなければ、
教育効果はゼロどころかマイナスだろう。
きれい事だけ言っていれば良いと教えるようなものだから。

子供に謝ることで親の威厳が損なわれると思っているなら、
それは大きな勘違いだ。
子供は、自分の非を認められる大人を尊敬する。
子供は、自分の尊厳を大切にしてくれる大人を尊敬する。
そして、メンツにこだわる、みみっちい大人を軽蔑する。


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上司は思いつきでものを言え [教育論]

部下の机にこんな本があった。

上司は思いつきでものを言う

上司は思いつきでものを言う

  • 作者: 橋本 治
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2004/04
  • メディア: 新書

俺、苦笑。
確かに俺は、思いつきでものを言う。
思いつきで何が悪い!

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英才教育 [教育論]

3歳からの英才教育とか言うけど、教育は早ければ早いほどよいだろう。
ということで、俺は10ヶ月の息子に日々、英才教育を施している。

今日は、一緒にLed Zeppelin DVDを鑑賞。
ボンゾのドラムソロに合わせて、頭を振る息子。
良いぞ。
そして、ギターソロになると積み木で遊び出す息子。
うーむ。わかってるんだか、わかってないんだが微妙。

曲によって、反応がまちまちでおもしろい。
Iggy and the stoogesのRaw Powerはノリノリだったけど、
AC/DCのHigh Voltageは、それほど反応が無かったりする。
どんな基準なんだろう。興味深いな。

Raw Power (Rmst)

Raw Power (Rmst)

  • アーティスト: Iggy Pop & The Stooges
  • 出版社/メーカー: Sony/Columbia
  • 発売日: 1997/04/22
  • メディア: CD


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父親の育児参加は有益か? [教育論]

父親も育児に参加すべきという社会的な風潮がある。
でも、俺には父親の育児参加は手放しで歓迎できるもとのは到底思えない。
日常的に子供と接していない父親が育児に参加しても、家庭に混乱を引き起こすだけだろう。

前のエントリーでも描いたように、子育てでは子供に何ができて何ができないかを知る必要がある。
平日家にいない父親には、そんなことはわかりっこない。
日頃から子供と接していない人間がしゃしゃってもろくなことはない。
自分が子供の現状を知らないと言うことを理解した上で、妻の指揮下で育児に参加すべきだ。
しかし、日本の父親は精神的に未熟で、自分が一番偉いと思いこんでおり、
あれこれと指示を出すのが自分の役目だと勘違いしている。
だから、普段家にいない父親が張り切って育児参加すると、はっきり言って迷惑だ。
俺の育った家庭では、父が関わるとろくなことがなかった。
俺の父の育児参加はいつも的はずれで押しつけがましく、
父が張り切ると、母にも子供にもストレスだった。
こんな父親の育児参加は、百害あって一利無しだ。

普段家にいない父親は、子供と楽しく遊ぶこと。猫かわいがりで良いのです。
どうせ、普段は家にいないのだから、多少甘やかしても害は少ない。
むしろ、張り切ってしつけをするとろくなことがない。
しつけの内容が父と母で一貫性が無いと子供は混乱する。
もし、しつけにも関与したいなら、何に関して叱るべきかを妻から指示をうけること。
育児に関しては、子供と多く接している人間がリーダーになるべきで、
子供との接点が少ない人間はリーダーの手足になるべきだ。
妻の手足として行動できない夫が、土足で育児に参加しても、混乱とストレスを招くだけだ。

普段家にいない父親が、子供のためにできる最大の貢献は妻のメンタルケアだろう。
(説教をせずに!)育児の悩みを聞くとか、美味しいものを食べに行くとか、夜のお勤めとか、
限られた時間でも妻のためにできることはいろいろある。
母親の精神的安定と夫婦円満が、子育て成功の鍵だ。
そっちの方面で頑張った方が育児で頑張るよりもよっぽど子供のためだろう。

育児よりも妻を支えるのが先ではないか?。


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理想の教育は、最低限の保護 [教育論]

親の役目は子供を全ての波風から守ることではない。
子供が自分で耐えられる波風にはさらして、
自分で耐えられない(もしくは耐えるべきではない)波風からは守ることだ。
常に適度な強さの波風にさらすことで、子供は強くたくましく成長していく。

子供はとても無力な存在として産まれてくる。
全面的な保護がなければ一日として生きていくことができない。
無力な乳幼児は、全てにおいて、保護を与えるべきだ。
しかし、子供の成長とともに、不要になった保護は順次、外す必要がある。
さもなければ、子供を支えるた添え木は、子供の成長を阻む足かせになる。

普段は優しく見守り、子供が新しい挑戦をすることを励ます。
そして、子供が助けを必要としたときには、素早く適切な行動をとる。
いつでも暖かく見守りつつ、実際に手を出すのは必要最小限。
これが、理想の子育てだ。
実際の子育ての現場では、過保護と無関心があふれている。

過保護な親は、どんな小さな波風からも子供を守ろうとする。
前のエントリーの背後霊ママはその典型だ。
大人の視点でアドバイスをすれば、子供は楽に生きられる。
でも、それでは生きていくための知恵がついていかない。
その結果、誰かに判断してもらわないと、何をして良いかわからなくなる。
だから、すぐに他人に自分の手綱を渡そうとする、指示待ち人間になる。
その場で子供に楽をさせることよりも、子供が自分の力で行動し、
そこから学ぶことの方が100倍大切だろう。
実は過保護って言うのは精神的に楽なのだ。
むしろ、子供の主体性に任せる方が忍耐が必要。
子供は常に試行錯誤をするので、失敗をして傷つくこともあるだろうし、
同じゴールにたどり着くのに時間がかかるだろう。
でも、失敗や試行錯誤は、すべて子供の成長のために必要なステップなのだ。

子供のお絵かきの宿題を親が手伝って、悦に入るようなバカ親もいる。
子供に必要なのは絵を描くという経験であって、上手な絵を提出することではない。
親が代わりにお絵かきをすることで、子供は経験の代わりに、
楽をしておいしいとこ取りをすることを覚える。
こういったことを繰り返すと、子供が自分で何かをやろうという気持ちは腐る。
子供は、自分でいろんなことをやりたいという強い気持ちをもって生まれてくる。
自分の足で立ちたいという気持ちが、生きる上での原動力となる。
この原動力が欠如した無気力な子供が多い。ニート増加の背景には親の過保護があるだろう。
生きていく上で必要なモチベーションを破壊してしまう過保護は、幼児虐待の一種である。

一方で無関心な親は、子供に必要な保護を与えないことで、年齢不相応の重荷を背負わせる。
子供のできが良い場合には、育ち損ねた親が子供に寄っかかっている場合もある。
これが俗に言うAdult Childrenだ。
こういう環境で育った子供は、年齢不相応に聞き分けが良くなる。
聞き分けが良さの背後には、自分の希望など叶えれてもらえないという諦めがある。
自分は希望を持つに価しないという強い自己否定を内部に抱えている。
一見、とても良い子にしつけられているように見えるかもしれないが、
過酷な環境に適応するために無理に成長した分、後でいろいろと無理が出てくる。
こういう子供は、成人しても他人と適切な距離をとることができない。
酷い待遇に対する耐性が高い反面、幼児的な願望を引きずっているので、
必要以上に距離を置いたり、心を許すと全てを受け入れてもらおうとする。


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背後霊ママの恐怖 [教育論]

公園にくるママは、「背後霊ママ」と「鵜飼いママ」に分類できる。
背後霊ママは、子供の後ろにぴったりくっついていて、
子供が何かをするたびにいちいち口出しをする。
鵜飼いママは、子供とは距離を置いて、事故が起こりそうなときとか、
大人の助けが必要なときだけ登場する。
この母親の態度の違いは子供の発育に大きな影響を及ぼす。
今日は、そのことを示す典型的な出来事があったので、紹介しよう。

3歳の息子と一緒に、公園へ遊びに行った。
ダンプカーのおもちゃで砂場で遊んでいると、同じ年代の男の子がよってきた。
保護者は鵜飼い系で、少し距離を置いている。
男の子はダンプカーに興味津々で、息子が遊ぶのをじっと見ている。
男の子に気がついた息子は「ここを押すと砂がじゃーっとなるんだよ。やってごらん。」と
得意げに説明して、すぐに一緒に遊び始める。
男の子同士で意気投合して、ギャハギャハ笑いながら楽しく遊んでいた。

少し遅れて砂場に同じ年頃の男の子がきた。
その背後にはママがぴったりくっついている。背後霊ママだ。
背後霊ママの子供は、お友達と楽しく遊ぶ能力が低い。
この子供は息子たちが遊んでいるダンプカーをいきなり奪って、独り占めしようとした。
息子たちが抗議する前に、ママが出てきて「もってきたおもちゃで遊びましょうね」という。
男の子は「このダンプカーが良い」とママに駄々をこねる。
すると、「みんなで遊ばないとダメよ」とママは自分の息子を諭す。
背後霊ママとその息子は、母子間の会話はあっても、外部との会話はない。
結局、この男の子は最後まで息子たちとなじめずに、
ママが引き離すようにして砂場の外に出て行った。
このお母さんは自分の家に砂場があったら、公園には来ないんだろうな。。

子供の世界には、先に遊んでいた子供が優先という暗黙のルールがあるが、
それ以外はかなりオープンで、何でもありだ。
その場でのルールは、先にいる子供が決めたものをベースに、
後から来た子が新しい提案をしながら変えていくものなのだ。

ダンプカーでどう遊ぶかを決めるのは、先にダンプカーで遊んでいる子供なのだ。
鵜飼いママの子供は一緒に遊ぼうという意思表示を息子にして、
二人で遊びのルールを決めながら楽しく遊ぶことができた。
鵜飼いママの子供は、「こうしよう」とか「こうしちゃダメ」とか言い合いながら、
子供同士でその場のルールを決めていくことができる。
大人が口出しをしなくても、子供同士でちゃんとルールを決めて楽しく遊べる。
一方、背後霊ママの子供はお友達など眼中にない。
彼にとって重要なのは、後ろで監視しているママの許可を得ることだ。
背後霊ママの子供は、何かするときにお友達ではなく母親の方しか見ていない。

背後霊ママが口出しをしなければ、息子と先にいた男の子がダンプカーを取り返しただろう。
その上で、「こういうルールで遊ばなきゃダメ」という話をしたはずだ。
そういう経験を通して、子供は砂場のルールを学んでいくことになる。
背後霊ママが口出しをしたせいで、この子供は砂場のルールを学ぶ機会を失った。
背後霊を続ける限り、砂場のルールを学ぶ機会は永久に無いだろう。
この子供が幼稚園や小学校に入ると、自分も周りも苦労する。
基本的なルールが全く身に付いていないから、摩擦が起こるのはしょうがない。
でも、背後霊ママは「うちの子は良い子なのに周りがいじめる」とかいって怒鳴り込むんだろうな。
子供の成長を阻害している、諸悪の根源は自分なのに。


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