子供という小さな器は自我で満たされている。
子供にとって、自分は唯一無二の絶対な存在である。
ところが現実は子供は神でもなく、最も無力な存在である。
自分の欲求と社会の制約を両立できるように子供を育てることが教育だろう。
残念ながら、そういう教育は非常に希である。
正常な教育の結果の健全な人間
子供は自我を保ちつつ、精神の発育とともに徐々に他人の視点を取り入れていく。
子供は愛されると、自分を肯定できるから、自我を保つことが出来る。
そして、様々な社会と接点を持つことで、様々な視点をもてるようになる。
その結果、自我を持ちつつ、柔軟に社会に対応できる人間になるだろう。
自分を大事にすると同時に、自分の周りの人間も同様に大切に出来る。
支配的子育ての結果の空っぽ人間
健全は発育段階を経て、親を含む周囲に配慮が出来るようになるには長い時間がかかる。
手っ取り早く、他人(この場合は親や教師)の都合に配慮させるためには、
まず子供に自分の意見を持つことを禁じる必要がある。
その上で、大人の都合を優先するように強要するのだ。
限られた大きさの入れ物に大人の都合を無理矢理入れれば、当然子供の自我は損なわれる。
子供を空っぽにするための常套手段が、子供を愛さないことと、哀れな親になることだ。
愛されない子供は愛を得るために親に取り入る。そのためなら、何だってするようになる。
哀れな親を持った子供は、親を支えるために、自分を捨ててしまう。
子供が自分を捨てれば、空っぽな心に思いのままのプログラムを書き込むことが出来る。
このあたりは、洗脳のノウハウと一致する。
このようにすると、本来は他人に配慮が出来るような発育段階ではない子供が、
他人に配慮できるようになる。大人の都合を優先する、物わかりの良い子供になる。
その正体は、自分を失って必死に他人の顔色を見る奴隷だ。
支配に失敗した結果の分裂気味な二重人格人間
子供を空っぽにするのに失敗した場合、その子供はどうなるのだろう?
子供は自我を持ちつつ、それが社会では否定される。
その子供は、社会的不適応と見なされて、様々な矯正の努力がなされるだろう。
自我を捨てる日まで、社会から袋だたきにされ続けるわけだ。
子供に出来る唯一の抵抗は、心の中だけだ。
行動は親に服従しつつ、心の中では自我を育てる。
心の中に境界線を引いて、外面と内面を使い分けるのだ。
外界に適応しつつ、自我も保てるので良いことずくめのように見えるが、
非常にまずいことがいくつかある。
まず、心というのは、本来、一つのものとして調和がとれている。
それを無理に分けているから、分裂症まで行かなくても境界例的にはなるだろう。
また、不本意ながら外界に適応する自分に対する嫌悪感を感じなくてはならない。
それは、服従する自分と、自分を服従させる外界への憎しみとなる。
内面の自我は、かなり未発達でバランスが悪い。
外界に出すことができないのだから、仕方がない。
現実社会で鍛えられていない自我は、非常に稚拙な段階に止まることになる。
この自我は、自己中心的な幼児的願望に支配されやすいのだ。
甘やかされた箱入り息子
自分が世界の中心だという幼児的世界観しか持っていない大人も多い。
親が子供を世間の波風から守るのが親の義務だと思って、
それを子供が成人しても続けていたりする。
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教育ママの自慢の息子、優等生 or おしゃれ、
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親を崇拝、ナルシスト、自分に甘く他人に厳しい、
自分は褒める、他人は褒めない、すぐに他人を見下す。